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心技体

心技体は無から有のステップにあてはまる(内から外へ) 稽古では 1 心(無):技の型をイメージ 2 技(剛柔流):意識の集中>技の型の通りに身体を動かす 3 体(有):技がかかる 日常では 1 心(無):思考(ひらめき・欲求)>想像(イメージ化) 2 技(剛柔流):意識の集中>潜在意識へ入れる>行動 3 体(有):現実化 となる 日常と稽古は同じこと 稽古でその流れを身に着け(正常化し) 日常にて活かす(技がかかるようにしていく)ことを 稽古の目標とする 技がかかること と 日常で思い通りに活きること は 同じ 稽古で技がかからないとき 下記のように心技体の順番が逆になっている(外から内へ) 1 心:相手の身体を意識する(現実に心が囚われる) 2 技:意識が相手の身体(外)に集中する 3 体:技がかからない(相手が現実化) 技が かかる(心→技→体)か かからない(体→技→心) は 心技体の流れの向きが異なるだけのこと 何を現実化するかは 1 心によって指定 2 技によって意識を集中 3 体によって現実化 のステップによって起こっている

自然体と意識

自然体の定義は 体の動きに氣をとられず 意識の集中をもって身体を操作する状態 稽古の中で利用する自然体には三種ある ・剛体 面 臍下丹田  ・柔体 線 中丹田   ・流体 点 上丹田  それぞれの自然体により 身体の動きとして現れる結果はバラバラであり 身体操作から入ると 面 線 点 となり それぞれ異なる動作であり 互いの動作は矛盾している 身体操作としては共通点がみられないが 意識操作の点からみると 臍下丹田 中丹田 上丹田 となり これらは意識の集中する場所が異なるだけである このことより 剛柔流のそれぞれ4段階目を設け 4段階目は 身体操作から意識操作を 意識操作から身体操作になること と規定している

剛から柔・流へ

剛を踏まえておくと 柔と流へ移行しやすい 着実に身につけられる 柔へ移行するルート 剛1>剛3>柔1 1.剛1のとき△◯▢と型を覚えていく 2.剛1を細かして形を型に近づけていく 3.剛3に移行する 4.剣の型より目線を固定することを身につける 5.剛3が柔1に移行される 流へ移行するルート 剛1>剛2>流1 1.剛1のときに△◯▢と型を覚えていく 2。剛1を剛2に移行していく 3.剛2より流1の丹田位置に意識を移動させ技をかけていく 4.流1の完成 ここに柔がないが 柔を身に着けていたほうが意識が固定されるため より身につけやすくなる 古来からの稽古手順は 剛3や柔から身につけるルートが多いと感じる 1.型の形を繰り返す 2.型の形通りにできるようになる 剛3 3.目配りができるようになる 柔1 4.気配りができるようになる 流1 上1のとき 相手がいる場合は相手は抵抗してはいけない 抵抗されると形が崩れて螺旋が消えてしまうため このように考えると 剛1の稽古自体が特殊といえる これもとても良い方法 この場合、1の段階で技がかかるかからないを気にしない

ターン制にする

呼吸力があるとターン制になる なぜなら▢でとっているので 相手が動くためには □でかけ返すか ◯で外す の2つの選択肢しかないため このいずれにしても 1動作分の時間を消費してしまうため □でとってる側が1動作分速く動ける 相手との結びが△や◯のときは 捕りと受けの動ける順に制限がない よって 速く動ける側(瞬発力・反射神経の高い)が有利となる 自身の体力(瞬発力・反射神経)が衰えてきたとき 有効なのは▢の結びとなる よって 常に□でとることを意識する稽古が重要

型稽古の意図

人は自己と自我との葛藤により自己を見出すこと(本来の自分を取り戻すこと)により 自在となり成長していく 型稽古とはその段取りを再現している仕組み 自身が自我にとらわれているとき 意識的になにかを行う そのことは一時的な反映をもたらすかもしれないが、やがて自滅する なぜなら自我の世界は二元であるので 良いことと悪いことが同時に常に発生する 良いことが最初起こると次に悪いことが起こり始める 陰陽の法則 次に自滅し落ち込むと 内面に注目し 自己に気がつき 無意識で動けるようになる すると その型の形の中で 一元の世界に入ったことになる 今までうまく行かなかったことがうまく回り始める それは自我(意識)から自己(無意識)へ転換したからである 何事も初めてのことは この段取りを踏むことは必然である 天才とはこの段取りを踏まない人 型稽古でいうと 型の形を覚えようとすることは ます意識的に行うことになる つまり 型稽古とは 自我をわざと使わせるように仕組まれており やがて 自己に気づくようになっている 自我があるから自己に気がつく それを繰り返していくと あらゆる動作が無意識に移り すべての動作が自己に転換する 型の形が自己となり それが実現する(技がかかる)ようになる 型稽古の意図がよくわかる

内から外へ

内側の各点(チャクラ・丹田)へ氣(意識)を向けると外へ反映される 合気道で技をかけることは この働きのほんの一表現にすぎない 内側が原因 外側は結果である とすると 氣は方法(手段)ということになる 合気道で確認できることだが 外のすでになった形をどうにかしようとしても 変えることはできない 技がかかるために形を修正するのではない 本来の課題に戻すために形を型に近づける 内側(内面)にこそ 莫大な財産と大いなる存在がある 氣は向けた対象を増大させる効果がある 氣により 内面が刺激・増大されると 外側の現実が変化する 無から有が産まれる仕組み 氣とは 内側から外側への架け橋の役割がある 氣を働かせるには 意識を集中させること 意識を集中するには 頭の中の思考を本来の使い方にしてあげること 思考は自身(自己)ではない ChatGPTと同じく便利な道具にすぎない 思考(ChatGPT)に囚われると 自己と同一視するようになる 思考を自己と同一視していないだろうか 思考を自分の考えと思っていないだろうか その状態から脱することが 氣を扱うことの第一歩となる

技と力技の違い

技がかけているのか それとも力技なのか 見分けることができる 技がかかっているときは 圧力を抜いても 相手は技がかかったままでは 相手は抗することはできない 力技は 圧力を抜くと 相手の圧を下回った段階で 相手は抗することができる 技がかかっていれば (□の結びがあれば) 手加減・力加減ができ 活殺を選択でき 活殺自在となる

型稽古の段取

型稽古では 覚えようとすること自体が 意識操作を身につける稽古となっている 意識操作する前段階として 思考を止める必要がある 型を覚えようとする行為には 一瞬思考が止まるという効果がある 段階として 1.型を覚える  ・思考を止めた状態を味わう  ・思考を止めることにより意識に集中できる土台を作っていく ・型の形を覚え、意識の集中の課題を設定できるようにする 2.型に技を入れる  ・型に意識の集中(配置)を入れて技がかかる(□)を体験する ・型の形にて技ができるように身につけていく 3.技のみでかける ・型と関係なく技(意識の集中・配置)のみで技をかける(結果・□) ・形は産み出すものとなり武産の状態となる

技をかけることの意味

見方を拡張する △◯□の結びをつくる手順である 張って(△) 小我(エゴ) 二元 抜いて(○) 引っ掛ける(□) 大我(自己) 一元 とは 自分から自我(エゴ・小我)を手放し 自己(大我)へ移っていく過程を示している □は 何もしないと起こることだが 何も無いのではない 自己(大我)の状態 合気道の稽古では ▢の状態だけでは何も起こらないので 故意に分離(△)をつくる必要がある まず △(自我)により起こしたいことを提示する 自我により 計画・宣言・しよう と発言・動きを自身に自覚(△)させたら それを切り離し(◯) 本来の自己の状態にする(□) これで二元が一元となり 一体化する 技がかかる(□・創造) 言い換えると △◯□は △ 顕在意識にて願望を伝える ◯ 自我を切り離す □ 潜在意識によって創造する の過程と理解できる

稽古の雛形

稽古方法として 呼吸法 型稽古 の二通りがある これらは 呼吸法:呼吸力(合気)を理解し深める 型稽古:形を増やし呼吸力を利用できる身体操作の拡大 の意図があり 呼吸法⇔型稽古 と交互に繰り返すことで 呼吸力を深く広く適用できるようにしてある ということは 型を呼吸力の易しい順に覚えていくことは 型を覚えた数と呼吸力が比例することになる よって この手順で稽古をすすめていると 型を覚えた数に比例して上達していることになり 昇級審査で型の形の可否のみにて 合否をみることは理にかなう

型の数

型の数は多い必要がある なぜなら 呼吸法で覚えたことを 日常生活の動きに転用するためには 日常生活での動きのパターンのすべてが必要となるから 覚えきれないくらい多いことも必要 ある程度数をこなした段階で 型や日常生活のあらゆる動きは 覚えた型の動きの組み合わせで表現できる とわかってくるから 逆にいうと 呼吸法で覚えたことを日常生活で活用するためには ある程度の型の数が必要である 呼吸法により 合気(呼吸力)の原理を理解習得する 型稽古により 呼吸力の働く動きのパターンを増やしていく これでようやく 合気道と日常生活がつながってくる

呼吸法と型稽古

合気道の稽古は 大きく分けて 呼吸法と型稽古の2通りがある これらは一見異なる稽古だが 同じ稽古である それぞれの特徴は 呼吸法 ・形が単純、段取りが少ない ・最初から意識の集中と配置に氣を使える 型稽古 ・形の段取りが多い ・形が複雑で意識の集中が難しい ・どのような形と段取りを組んでも意識の集中が安定することを目指す 呼吸法と型稽古の差は 形が多い少ないでしかない 呼吸法で意識集中のコツをつかみ 型へ転用していく 型を覚えて(守) 型稽古の型を呼吸法の型へ変化させていく(破) すべての型を呼吸法の型へ変化させることができたとき 型を離れる準備ができたことになる(離) 見かけは 二つに分かれている(二元)が 元は一つのものである(一元) 二元を一元にしていくことが 稽古の目的である

受けの稽古(剛1)

受けは 剛3よりも剛1の方が難易度が上がる 剛2と3のとき 捕りは 相手との隙間を埋めるのが速く 方向自在なので 捕りの方で隙間を埋めやすい そのとき 受けはただ止めるだけで稽古は成立する (本当は受けも剛2と3で制止する方がよい) 剛1にて受けは より意識的に 隙間を常に最小化する必要がある ◆隙間を常に最小化する これは実戦を考えたときに 一番先に習得しないといけない 合気をかける前提条件は 隙間を埋めること これは捕りでも受けのどちらでもよい 実戦的な武道武術ではこの技術を習得しやすいが 合気道は静から始まるので この技術の習得が難しい 剛1は 捕り:丹田固定  平行移動 △◯▢知覚 受け:隙間を埋める(方向と距離) の稽古となる 剛1は 捕りだけでなく 受けの技術向上も兼ねており とても重要な稽古となっている 受けと捕りの技術レベルが 1から4と進むに連れ 反比例することは面白い

欠けたパーツ

合氣道は武道武術の欠けたパーツの1つにすぎない よって 合氣道の型だけでは 武道武術の全てを網羅することは 難しいかもしれない 現在 合氣道の型に剛術、柔術、流術の理合を埋め込み 型と意図を紡いでいく作業を進めている。 最終的には、合氣道のみで 剛柔流の技を網羅できるように型を整備したい。 そのためには居合型も 整理し稽古へ組み込む必要があるかもしれない。 どの程度の型で どの程度の技術を 習得できるように整備できるのか模索している

剛から柔と流へ

剛を4段階に分けている この4段階に分ける利点は 下丹田の使い方を 段階を踏んで習得できること この4段階に分ける利点はもう一つある 剛から柔と流へ気づくきっかけとなる 剛の段階と柔と流で関係するのは 剛3 → 柔1 中心線を追加 剛4 → 流1 接触が面から点へ 通常 剛と柔と流は次元が異なるため 剛と直接関わることのない別の技となる そのため 剛ができたとしても 柔と流に気づく事ができるとは限らない 剛を4段階に分けておくと 剛3と4が 柔と流とつながる 身についた剛が 剛1と剛2では 柔と流に気づくことは難しい 剛3と剛4が必要となる 身体の触覚を媒体に 剛から柔と流へ拡がっていく

剛の4段階

剛の稽古は 明確になり整理できてきている 下記順で習得すると 効率よく剛が向上していくよう 剛1(下丹田固定):剛体維持、平行移動で▢、△◯□の知覚、型の形 剛2(下丹田移動):丹田の移動で◯□、△の最小化 剛3(下丹田回転):丹田の回転で□、螺旋、型習得 剛4(下丹田自在):意識と身体の分離、□の向き自在 剛1の習得した段階は、 ・剛体によりある程度の自然体レベル ・△◯□により相手の技を知覚し分析できる ・型を一通りできる となり 合気研究のスタート地点(黒帯)としている 柔と流はまだ整理中

剛柔流と丹田

剛柔流の区別は意識の配置 のみ 意識の差は 剛 臍下丹田 柔 目線 流 周囲 剛柔流の意識配置は 丹田の位置と相関ある 剛 下丹田  柔 中丹田   流 上丹田  丹田の意識とつながると 他のものとの関連性も見えてくる

剛柔流の区別

剛柔流の区別は 稽古の段階で変化し 最後は意識の配置 のみとなる 初めは身体操作に差がある 剛 身体の平行移動 柔 腕上下 下半身半身切り替え 目線の固定 流 等速運動 稽古が進むと 身体操作の差は消えて 意識の差の違いのみになる 意識の差は 剛 臍下丹田 柔 目線 流 周囲

思考とひらめきは外から

思考とひらめきは 自身ではない 思考とひらめきは 常に自身の外からやってくる その媒体は電磁波?である それを外から受信すると それが思考とひらめきとなって現実となる 常に その思考とひらめきに従い 行動している 真に生きているとき 思考とひらめきを伴わずに 次の行動を決定することはできない 逆も然り よって その思考とひらめきが行動の根幹であるため その関係を知り調整することは とても重要 自身では その思考とひらめき自体を 自由自在に無から創造できない 思考とひらめきは 勝手に外からやってきては現れ 勝手に通り過ぎている 自身はその中のいくつかを選び 行動する それを繰り返していることが日常である 自身のできることは下記2点のみである ・思考とひらめきの質を変調すること ・現れた思考とひらめきの取捨選択すること 「思考とひらめきの質を変調すること」について 思考とひらめきの質は 自身の波長で選択することができる 自身の波長(1/振動数)は自身で決めることができる できるだけ波長を短く 振動数を高くしておき 自身の意識を上げておくこと 意識の振動数を上げておくで より高度な思考とひらめきが 振動数の高い方からやってくる その振動数の選択は合気道と結びつく 意識の振動数は 剛>柔>流 の順に高くなっていく 合気道により意識の振動数を調整する方法を習得することは 日常生活でとても有用となる なぜなら 思考とひらめきが行動を決定しているため 「生きること」そのものであるから 合気道の利点として 型稽古が静的な稽古から入るので その意識の状態をじっくりと 確認しながら形成していくことができる 自身の振動数を上げて安定化させ 状況に応じて選択できること これが合気道の真の課題である これは合気道だけの話ではなく他の事も同じ 合気道はそれが分かりやすいだけのこと 自身の意識の振動数が 自身の現実の状態に依存しないようにすることを 不動心 平常心 と定義する それが合気道の稽古で身につくこと 表面上は武道の稽古を行っているが 目的は全く別にある マザー・テレサからの引用 思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから 行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから 習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから 性格に気を

型の制限効果

型は制限を設けている これは実戦には適さない場合が多い 古武道の型はその例が多く見られ すぐにこれは実戦に使えないと省かないことにしている 自身の技量がその型に達していない場合があるため よって 自身の理解により取捨選択するのは考えず 型をまず覚えておくこと 型は 即実戦に使うことよりも 習得すべき目的があり制限をかけている場合がある 型の習得が上達と同期している 例えば 型)剣の前後振り 制限)肘を伸ばしたまま、手首を返さない 効果)下半身の半身動作にて剣の上げ下ろしできるように 無い場合)剣をただ振っていると半身動作に意識がいかないため手振りから脱せない 型)前屈 制限)腕、胸、腰、大腿骨、足首を剛体 効果)前屈の範囲が拡がり柔軟性上がる、身体意識の拡張 無い場合)前屈することに気がとられ、身体の各部の動作をうまく行えず、柔軟性が上がらない 制限をかけてくることで見えてくるものが変わる 型は形の制限であり 優れた型にはそのような仕掛けがある 制限がないことが自由で良いと考えるが 制限を設けることで逆に拡がることもある 型稽古とはそういうことを狙っているのではないのか その優れた型は古流がほとんどで 近代の型は実践的味付けが強く感じる 古武道の型は 現代の身体操作と大きく異なる 現代の常識で解釈すると その型を行う意味、目的・意図・課題を見失っていることが多々ある 私の合気道での目的は ・型を整備し習得すべき順序をつけること ・剛柔流それぞれの稽古方法の整備・確立 となりつつある

型稽古の利点

なにか稽古を新たに始めるとき まず型を習得することが重要 型を覚えていくことで その動作を有意識から無意識にて できるようになっていく この利点は その型の動きの中で 容易に自然体の差ができてくる (特に初心と中級との差にて) よって 初心から中級に上げていくとき まず型を覚え ある程度無意識下にてできるようにすることを 最も優先すること 慣れることは ・身体動作の無意識化 ・自然体の絶対値の向上 につながる 合気道だけの話でなく 他の習い事も同様

氣構え

氣構えをどう考えるか? 「氣構え」を 「意識することによる認知機能」とする この場合の氣構えを 剛柔流の理屈から逆算すると 氣構えとは対象に対し 周囲に氣を配り(流) 目を向け(柔) 安全な距離をとる(剛) ことと説明できる 稽古でこの氣構えを習得していく 習得し易い順番は、 剛 距離 柔 目線 流 場 となる 実際に利用する順番は逆になり 流 場 柔 目線 剛 距離 となる 初めに それぞれの意識ができるように稽古する 例えば 剛の場合 接触圧のある相手の方向を向き 接触圧が抜けないように距離を保つ 次に その意識できる範囲に相手が入ったとき その間をどのように変えていくかを習得する 例えば 剛の場合 張って(△) 抜いて(○) 引っ掛ける(□) にて間の結びを変化させる 稽古を積むと この氣構えが身についてくる それぞれの氣構えは 常に意識し鍛錬することが重要 剛を行うと距離の氣構えができてくる 柔を行うと目線の氣構えができてくる 流を行うと場の氣構えができてくる